箏曲家・宮城道雄の生涯

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日本人にとって正月を彷彿させる曲といえば、『春の海』だろう。曲名でピンとこなくても、正月に商業施設やTV番組等のBGMで流れている、箏と尺八の二重奏といえば、何かしらの旋律が頭をよぎるはずだ。僕にとってこの曲はあまりにも馴染みが深すぎて、作曲者について知ろうとなど考えたことがなかった。しかし妙な縁によって、ヨーロッパでこの作曲者である宮城道雄の名を知ることとなる。この人物がいかに音楽的感性に秀でた天才であったか、また西洋音楽との架け橋となった彼の日本音楽史における多大な貢献と、その背景にある波乱万丈な人生についてもっと多くの人々と共有する価値があると思い、この記事を捧げることにする。

 

文明開化とともに横浜と並んで最も西洋化が進んでいた港町、神戸。明治二十七年四月七日、音楽家・宮城道雄はこのエキゾチックな街に生まれている。父・菅国治郎、母・アサ。道雄はこの二人の長男であった。

しかし生後僅か半年余りの頃、彼は目の病気を患う。それ以来道雄の視力は少しずつ衰えていく。何度医者に診てもらっても、症状は一向に回復しない。小学校に上がる頃には、足元もおぼつかなくなってゆく道雄。

目が不自由だという理由から道雄は入学させてもらえない。毎日彼は、小学校の門にしがみついて泣き噦っていた。その後も視力は悪化する一方。東京から訪れた有名な眼科医の元に、祖母のミネが孫を連れていったのは道雄が八歳の時だった。

そして眼科医の診断が下る。「お気の毒ですが、手遅れです。これからはどんなに良い医者が来ても、また、どんなに良い薬があると言われても、迷ってはいけません。」

一日中薄暗くした部屋に閉じこもり、ただぼんやりと時を過ごす道雄。少年に温もりを与えてくれる人はいなかった。道雄が四歳の時に、母アサは夫の浮気に愛想を尽かし実家に帰ってしまったのだ。まもなく父は浮気相手と再婚する。この新しい母親が、目を患っていた道雄に温かく接したという記録は一切残っていない。

数年後、菅一家は新しい仕事を始めるため朝鮮へと旅立った。その中に道雄の姿はなかった。「姉さんや弟は連れていってもらえるのに…」こうして祖母と孫だけの暮らしが始まった。何くれと泣く孫の面倒を見るミネ。しかし道雄は食事を受けつけようとしない。何とかこの子に希望を与えなければ。

ある日ミネは、弱った孫を外へ連れ出した。温かい日差し、柔らかなそよ風。祖母が触らせた木の葉を、道雄はいつまでも握りしめていた。それ以来、彼は身の回りにある品物を手当たり次第に触り始める。やがて彼は、叩き始めた。ひとつひとつ叩いては音を確かめる道雄。その熱心な姿は祖母ミネに一つの思いつきを与える。「そうだ、お琴や三味線なら目が不自由でも食べていける。」

たまたま近所に琴の名人、二代目・中島検校が住んでいたこともあり、琴の修行を始める道雄。自分一人の力で生きていくには、手に職をつけなければ。最初は嫌がっていた道雄も、祖母の必死さに押されて琴の前に座る。もはや他の生き方を選ぶことはできない。彼の前には琴だけしかなかった。

こうして厳しい修行の日々が始まった。寒い冬の朝も、木枯らしの吹き荒ぶ中で何時間もぶっ通しの稽古を続ける道雄。弾いているうちに指から血が滲んでくる。そんな毎日を送るうちに、元々の音楽付きも手伝って、道雄の腕はみるみる上達していった。

十一歳の時には、早くも免許皆伝のお墨付きを手にする。ちょうどその頃、一通の手紙が道雄の元に届く。朝鮮に渡っていた父・国治郎からだった。「朝鮮に来ないか。待っている。」明治四十年、十三歳の道雄は祖母と共に家族の待つ朝鮮へと向かった。

日露戦争以来、日本の支配下に置かれつつあった朝鮮。道雄が降り立ったのは、朝鮮の海の玄関口として栄える街、仁川だった。新天地・朝鮮で一攫千金を夢見た父・国治郎。ところが彼は事業に失敗し、暴動騒ぎに巻き込まれ大怪我を負ってしまう。国治郎が道雄を呼んだのは、琴の腕で生活費を稼いでもらうためだった。

早速琴の教室を開き、父親に代わって一家の大黒柱となる道雄。しかし、だからといって道雄が受け入れられたわけではない。必要なのは琴の腕だけ。中でも新しい母親はことあるごとに道雄に冷たく当たった。やがて母親の機嫌が悪そうな時には、そっと部屋を抜け出し軒下に佇むようになる道雄。

どこにも居場所がない。冷たい雨音を聞きながら、十三歳の少年に渦巻いていた空虚な思い。道雄は琴の前にいる時間は、日を追うごとに増えていった。彼に残されたものは、琴だけだった。そして道雄の音に対する感覚は琴への熱中をきっかけにどんどん研ぎ澄まされてゆく。

「雨が降る前とか天気の悪い時などには、琴の弦が湿って音が冴えなくなる。今日は天気がよいが、二、三日のうちには、雨になるということも、たいてい予想できる。」

「毎年正月になると、私の家の庭先へ、一羽の小鳥がやってくる。それは去年も一昨年も来たのと同じ小鳥なのである。しかし、私の家の者は誰も、それが毎年来る同じ小鳥であるということには、気がつかない。毎年同じ音色と調子でさえずるのを聞いて、私にはそれが前年と同じ小鳥だということがわかるのである。」

生徒に教えていない時にも琴の前に座り続け、知っている曲を何千、何万回と繰り返して弾く道雄。とはいえ、彼が習ったのは僅か数曲だけ。ついに道雄は行き詰まる。もう弾く曲がない。

その時、弟の声が聞こえてきた。それは高等学校読本の一節だった…

霧の歌  小山田に 霧の中道踏み分けて 人来と見しは 案山子なりけり
雲の歌  明けわたる 高峰の雲にたなびかれ 光消え行く弓張りの月

再び琴に向かう道雄。しかしそこで彼は始めたのは、奇妙なことだった。習った曲を弾くのではなく、一つ一つの音を手探りするように爪引きだしたのだ。

一ヶ月後、不思議な曲が完成する。作曲家・菅道雄の処女作『水の変態』(当時十四歳)。明治四十二年のことであった。

やがて一人の人物が道雄の作品『水の変態』に注目する——伊藤博文。ちょうどその頃朝鮮に来ていたこの大政治家が絶賛したため、少年天才作曲家・菅道雄の名声は一気に高まってゆく。伊藤は、道雄を上京させて支援することを約した。

わずか十五歳で作曲家として認められた道雄。こうして約五十年に及ぶ彼の音楽家人生は、幸運なスタートを切る。少年音楽家として注目され、新し物好きの朝鮮の日本人達にもてはやされ、人気を集めてゆく道雄。彼は作曲に、演奏活動にと、忙しく充実した日々を送るようになる。

しかしその矢先、伊藤博文は安重根によって暗殺される。上京の夢は叶うことは無かった。さらに祖母ミネが急性肺炎でこの世を去る。幼い頃から文字通り目となって支え続けてくれた祖母の死は、道雄にとって死活問題であった。だが、祖母に変わって道雄の目になろうとする人はいない。生まれて初めて彼はすがるもののない恐ろしさを味わった。

その時、道雄の前に一人の女性が現れる。後に彼の妻となる喜田仲子である。大正二年。とはいえ、この出会いには隠れた事情があった。仲子は再婚であり、道雄より十六歳年上。しかも当時三歳の仲子の連れ子は、身体に重い障害を抱えていた。三十五歳の花嫁と十九歳の花婿。二人の結婚式は内輪だけでひっそりと挙げられた。三年にわたる同居生活の末であった。

ともあれ、祖母に変わる新しい支えを得ることができた道雄は、再び音楽活動に熱中してゆく。しかもこの結婚で、道雄は婿入りする形になった。仲子の実家である”宮城”の姓を名乗ることとなった。音楽家・宮城道雄の誕生である。

その後も精力的な音楽活動を続ける道雄。評判は固まる一方で、二十歳を迎える頃には、朝鮮で一位二位を争う大音楽家の地位に昇りつめていた。

しかし同時に道雄の中で、もっと上を求める気持ちが湧き上がってくる。琴の聖地・東京で自分の腕を試したい。大正六年二月、二十二歳の若き音楽家は、妻仲子と共に上京。早速朝鮮での名声を足掛かりに、いくつかの演奏会に出演。自信作『水の変態』を披露する道雄。

ところが、

「あれは君、ピアノの真似じゃないか。琴じゃない。邪道だよ。洋楽の真似のしそこないだ。まったく児戯に等しい。まして擬音を使うなどとは、音楽では最下等のおこないだ。」

昔から伝わる由緒ある音楽だけを忠実に演奏する、それこそを正しい道と信じる琴の世界が、道雄を受け入れるはずはなかった。

「私は、琴を単なる楽器として考えることができない。あるときは恋人ともなり、またあるときは友人ともなってくれる。だから、一日として私は、琴を離れて生活することができない。」

琴だけは認めてもらえる、そう信じていた道雄にとって、本場東京での思わぬ批判は大きな衝撃だった。とはいえこのまま朝鮮に引き返すわけにはいかない。箏曲教授の看板を出しても、わざわざ誰も認めぬ先生に教わろうという生徒はいない。どうして認めてもらえないのだろうか。

毎日の食費にも困る極貧生活の果て、突然妻・仲子が倒れ、入院後間も無く彼女は帰らぬ人となる。享年三十九歳。希望に満ちた状況から僅か半年後のことだった。またもや手足をもがれてしまった道雄。頼みの琴も認められないまま、ついに彼は絶体絶命の窮地に陥る。

権威と伝統の厚い壁に突き当たり、妻をも失った道雄。一人の女性が彼の元を訪れたのはそんな時だった。彼女の名は吉村貞子。朝鮮時代、道雄に琴を教わっていた貞子は、彼は東京にいる琴を聞きつけて再び弟子入りを申しつけたのだった。こうして始まった師弟の関係、それはやがて愛情へと変化していった。

妻を失った道雄同様、貞子もまた結婚に敗れ夫と別れていたのだった。道雄に大きな才能を感じ取っていた貞子は、周囲の猛反対を押し切って結婚を決意。大正七年五月、二人は結ばれる。貞子二十九歳、道雄二十四歳。

結婚式の翌日、夫の借金返済のため自分の着物を質に入れる貞子。相変わらずの貧乏暮らしの中に、彼女は夫の才能と可能性を信じ続けていたのだ。その後もやりくりが苦しくなる度に貞子は質屋通いを繰り返す。とはいえ、それにも限界があった。質入れしようにも質草にする着物が底をついてしまった。夢だけで食べていくことはできない。

ところがこの頃、少数ながら道雄の音楽を評価する人々が現れる。しかもそれは琴の世界とは関係のない人々だった。時を同じくして、日本では洋楽のコンサートが盛んに開かれていた。道雄を押し上げたのは、西洋の新しい音楽と接した柔らかい頭の持ち主だったのだ。

そんな門外漢たちの後押しで、やがて道雄の夢が実現する。大正八年五月十六日、宮城道雄”第一回作品発表会”を開催。一人の作曲家の新作ばかり発表する邦楽の音楽会など、前代未聞のことであった。「果たして私の作品が認めてもらえるのだろうか…」

観客の評価は予想以上だった。しかも道雄を認めた人々の多くは、それまで邦楽に興味を持たなかった一般大衆。写実的でわかりやすい彼の作品は、全く新しい日本音楽の愛好者を生み出してゆく。演奏会を重ねるごとに、音楽家・宮城道雄は人々の幅広い支持を受けるようになった。

さらに一つの事件が道雄の名声を揺るぎないものにする。大正十四年三月二十二日、ラジオの本放送が開始。この日最初に流れた音楽こそ、道雄の作品である。

電波に乗って、たちまち道雄の名は日本国中に広まった。さらに彼は琴の可能性に挑戦していく。練習用に短琴という小型の琴を、伴奏楽器として十七弦という新しい琴、そして八十弦という琴のグランドピアノまで作り出してしまう道雄。

水と油のように考えられていたとの共演を手掛けたのも彼が最初だった。こうした意欲的なチャレンジはやがて大きな実を結ぶ。昭和七年五年、ひとりの女性が道雄の元を訪ねてくる。

「あなたの作品、春の海のバイオリンアレンジができました。是非一緒に演奏させてください。」

そう申し出たのは、フランスの名バイオリニスト、ルネ・シュメーであった。彼女の強い希望で、バイオリンと琴による歴史的な演奏会が実現する。コンサートは大成功をおさめ、二人の共演による『春の海』がレコードに吹き込まれる。

国内だけでなく海外でも大ヒットを記録する『春の海』。いつの間にか道雄は、日本が生んだ天才作曲家として世界的な名声を手にしていた。しかし、いかに高い評価を受けようとも、道雄はその名声に酔いしれることはなかった。

道雄が教える琴の教室で、先生に見えないと思って生徒が行儀を悪くする。するとすかさず「ちゃんと座って」と注意をする道雄。また、悩みを抱えている生徒琴を弾く、すると「何か心配事があるのでは」と問いかける道雄。生徒たちは何度となくみちおの不思議な力を体験していたのだ。

「心に雑念があると、琴の音に雑念が入る。心に落ち着きのない時には、琴の音が乱れる。琴は、弾く人の心を映す鏡のようなものである。人は欺きえても、琴を欺くことはできない。琴は決して嘘をつかない・・・。」

日本国内に止まらず、世界の大きな舞台でも高い評価を受ける道雄。高まり続ける名声とともに弟子の数も年々増える一方、活動を円滑にするための組織も年を追うごとに膨れ上がってゆく。

昭和二十六年には全国的な組織、宮城会が発足。会長・道雄を中心に日本を代表する一派として歩み始める宮城会の発展と共に、演奏会で披露する道雄の作品もますます大規模なものになっていった。

ところが、組織の発展と共に、道雄にとっては不本意な自体も生じてくる。他の流派同様、お金をとって免状を与えるという免状制度が始まった。確かに組織を維持するために免状制度は必要なことである。しかし、それは道雄が琴に寄せる思いとは大きくかけ離れていた。

音楽活動においても道雄の自由は次第に失われていった。道雄の演奏会に参加するのは宮城会のメンバーだけ。かつては積極的に行われた洋楽との共演も、いつしか途絶えていた。

「私は何物にもとらわれたくない。とらわれるということは、一面には自ら滅びるということが暗示されているように私は思うのである。」

いつのまにか周りに築き上げられた権威と名声の中で、道雄は自由を失っていた。組織のために自分を曲げざるを得なくなった道雄。しかも彼には、そんな権威や名声を巡る人々の心まで、手に取るようにわかっていた。

人に接するときは常に穏やかで決して怒った顔を見せなかった道雄、しかしこんなエピソードが残されている。自分の部屋に閉じこもり、誰もそばにいない時に限って、道雄は手近な品物にやるせない思いをぶちまけていたのだ。

さらにある出来事が追い打ちをかける。後継者争いである。自分の周りに造られた権威のために迷い苦しむ人々の存在。欲望と力をめぐり様々な行き違いの中、道雄は誰よりも辛い思いを噛み締めていた。

「私が一番苦しく思うことは、相手によって言動に階級をつけることである。人間はどうしてああいうことをせねば、気が済まぬのか、目下の者だから、貧しい者だからといってなぜ威張らねばならぬのか。私には、そういう気持ちがわからない。」

この言葉の裏に込められた道雄の本当の叫びは、一体どんなものだったのだろうか。しかし彼がそれを口にすることはついになかった。

昭和三十一年六月二十四日、寝台急行に乗って関西への演奏旅行に出発。その途上、彼は帰らぬ人となった。翌日新聞にひとつの死亡記事が掲載された。”宮城道雄氏、転落死”

転落後、線路脇に倒れているところを発見された道雄が、こんな言葉を残している。

「どこかへ連れて行ってください」

彼が息を引き取ったのはその数時間後のことだった。
昭和三十一年六月二十五日
宮城道雄 死去 享年六十二歳